昭和四十三年一月十四朝の御理解


 御祈念の後の教話を、教典を開かしてもらって、朝から頂くもの、私が御祈念中に頂くもの、それらを頂き合わせて、皆さんに聞いてもらっています。今日も私は、教典を開かしてもらいました。そしたら、白紙の所、何も書いてない所を開きました。ですから、今日は、白紙になって、御理解を頂いて下さい。
 皆さん、よくそうゆう体験をなさる事があるでしょう。水道の水が勢いよく、ジャーッと出ているところへ、コップを持っていっても、何程の水も入ってないとゆう事。皆さん、御承知の久留米の笠さんが、朝参りも済んだ、一息ついた頃、朝参って来られます。あの人は、お参りはしても、お話は頂かないんです。けれども、ここで長い長い御祈念を捧げられます。そして、時折、横で誰かがテープを頂いとりますのが聞こえてくる。あぁあれが今朝の御理解だなあ、それは御祈念の中ですから、全部聞く訳じゃあありません。自分の心に響いてくるもの、それを少しばかり頂いて帰って、それを大事に大事に今日一日の支えとして行じさせて頂きます。そこから、それはそれは不思議なおかげを頂きますとゆうて、話しておられます。本当に素晴らしい事です。そうゆうて朝眠たい思いをして、合楽へ合楽へとゆうて、お参りしてみえますが、かえって笠さんの行き方の方が良くはなかろうかと感じる人もあるかもしれませんが、それを真似したのでは、おかげは受けられん。あの人はあの人、私共は、それこそ参った上にも参って、頂いた上にも頂いて分かっていかねばなりません。
 今日、私が一番初めに申しますように、いつもジャージャー水道の水が出ておりましてもです、コップに受けましても、何程の水も入らない。ですから本当に御教えを頂いてから、成程、成程と、これは皆さん、笠さんじゃあない。修業なんです。そうでしょうが、ここには信心の稽古に来る所とおっしゃるが、信心の稽古に来た、その稽古を頂いて帰っての復習、それこそが大事なんです。皆さんは、あまり日々御理解を頂いとるもんだから、頂いて帰ってみたら何にもなかったとゆうような事はないでしょうか。家に帰って、今日のお話はどんな事だったと家族の者から聞かれても、ええと、とゆうような事ではなかろうか、それではつまらん。今日は、これだと頂いて帰って、今日一日の信心の守りとする。ゆうなら自動車の運転手のような気持で一日を過ごす事。あなたが、今日一日、家族中の人、そして関係のある人、全部を乗せておる運転手のような気持で、私が間違えたら、この全部の人迄もが怪我をするんだとゆう真剣な気持でおかげ受けられるといいんです。
 昨日は、本年初の十三日会でございました。それに対してです、頂く御理解が何でもひとつ基礎とゆうものがなからにゃあいかん。どうゆう風に素晴らしい事を覚えても、どんなに素晴らしい事が分かっても基礎が崩れておったら、ただ自分の小さい願いといったものが基礎であったとするなら、おかげにならん。基礎が大事。その基礎はどうゆう風な事かとゆうと、神様の願いが成就する事の為に大坪総一郎とゆう、一氏子の為に、天地の親神様が願いをかけてござる。あぁあってくれよ、こうあってくれよとゆう事なんです。その願いが成就するおかげ、そうゆう信心を頂こうとゆう願い、そこん所の基盤になるものがです、まっすぐになっておらなければ駄目だ。十三日会で皆さんが願っておられる、目指しておられる信心とゆうものが、そのまま真っすぐい考え方なんだ。今日一日は神様の願いに答えまつる一日でありたい、と祈らして頂く者が集い、これが合楽の御広前だけではない、全教の上にも、これが御道の基盤になる事がです、神様の、又願いであると気付きます。
 ところがです、昨日の時間は、どの様に費やしたかとゆうと、時間をお互い励行しようやとゆう事であった。あれこれ話が出て、結局十三時とゆう事になった。こうゆう事が今年の信心の一番の的としてくる。時間励行とゆう様な事は当たり前の事。その当たり前の事が出来ずして、他にどうゆう話があっても、発表があっても、成程、これは本当の事じゃなかろうとゆう事になった。まあ話は一寸それましたが、その中で最近寒中修業が始められて一家を挙げて朝参りをされておる久留米の佐田さんに、一家が修業に取り組まれるようになって、どうゆう様な信心が佐田の家に展開されておるか、どうゆう様なおかげを受けておられるか、その一端を発表してもらった。
 その中で主人が、仕事の上に大変おかげを頂きましたと言うて、発表されるのに、先日ある業者の方から、今日この手形が落ちなかったら自分の店の大変な重大事だとゆう訳なんです。そこで、そこには月末に払えばよかったので、まあだ、それは出来ませんよと言うて、断ると、相手の御主人の顔色が変わった。それは腹を立てたとかなんじゃあなくてです、ここをあてにしとったのに、これではこの先、どうなるじゃろうかとゆう様な風に佐田さんは思われたのです。大変な金額なんですが、断る事は断ったけれども、やっぱりなんとかしてお払いしなければいけんじゃろう、どうかしなければいけんじゃろうと思うているところへ、本店から電話が掛かってきた。百万円、今日中にどうかしてくれとの電話であった。片方から六十万、本店から百万、合わせて百六十万である。いよいよもって一方だけでも、どうかと思っているのに、それで合楽にすぐお取次願おうと家に電話しようと思われたが、けれども今日は家内が学校へ行って留守である事を思い出された。その時、こうゆう風なお届けを親先生にさして頂いたならどうゆう風に御理解頂くだろうと、最近頂いた御理解から、今朝頂いておる御理解を心の中に思ってみた。おそらく親先生なら、本店の方にもおかげ頂きなさい。又その人が助かるとゆうなら、その人の方にもおかげ頂きなさい。あんたが心配するごつあるの、神様から御都合、お繰り合わせ頂いて、おかげ頂けと言いなさるに違いないと思うた。それで腹が決まった。これはどうでも、あの人を助けにゃあならん。本店にも顔を立てにゃあならん。とゆう一心の思いがです、そこへんから金銭のお繰り合わせとゆうか、本当にどうかとゆう様にですねえ、百四十五万円出来た。向うの方でも出来んようになっとったつが四十五万円でも、もうそれこそ地獄に仏とゆう様に喜んで帰られた。本店の方にも顔の立つ様なお繰り合わせを頂いてから、まあ日々こうゆうおかげを受けておりますとゆうお話であった。
 私が、今日皆さんに聞いて頂きたいとゆうのは、そこのところなんです。必ずしも、いちいち電話したり、お取次を頂く必要はない。日頃頂いておる御教えがです、そこにそれぞれの生活現場でです、生き生きとして、それが使われなければならないとゆう事なんです。ですから、いかに心を神様に向け続けておらなければならないかとゆう事なんです。佐田さんが感じられたように、確かに、私にお取次されても同じ様にお取次したに違いはない。そこに神様の心が分かり、親先生の心が分からなけりゃあいかん。日頃頂いておる御教えは、全部頂いてないに致しましてもです、私は今朝から、その事を思わせて頂いたんです。そしたら御心眼に滝がどうどうと落ちているところを頂くんです。それこそコップども持っていっても、いよいよ入らない。これでは滝の水を捨てるようなもの。これは私共お茶を致しますから、水にはやかましいのですが、そうゆう様に滝の水がドウドウと落ちておるとですねえ。その下には、必ず淀んだ所があります。淀んだ水が動かないとゆう所がです。そこのところの水を汲んでお茶を立てますと非常にお茶がおいしいです。水が練れているからなんです。佐田さんの、その事は、ゆならどんどん落ちておる滝の水ではなくて淀んでおる所の水を汲んで帰っているようなもの、日々がそうなんです。
 親先生が、この時はどげん言いなさるか、練って練って練り上げてです、練れた所の水なんです。そして佐田恭造の信心性格とゆうか、それに合わせた所から良いものが生まれてくる。成程いい味わいのある信心生活が出来るはずと思うのでございます。話を聞くだけが脳じゃあない、吾心からも練り出せ。練った練ったその答えが、日々佐田さんの場合は答えが出てくるんです。皆さん、今日はここんところを白紙になって、今日の御教えを頂いて、いかに信心生活が大事なのか、お参りする事も大事、御理解を頂く事も大事、けれどもそれを持って帰って、練って練って練り上げて、今日一日の支えになる。しかも自動車の運転でもしておる様な気持になって、私が間違えば、皆が間違うんだとゆう様な心になってです、日常の信心に取り組まなければならない。そこから良いものが生まれてくる事を、私は確信致します。どうぞ頂いて帰った御教えがです、日々の私共の支えとなるようなおかげにならして頂いた時、初めて教えが生きてくる訳でございます。現教主様が、事ある毎にお使いになる言葉に、それぞれの生活の現場に於いてとおっしゃっておられます。それぞれの生活の現場に於いて、練って練って練り上げた御教えとゆうものが、そこに我情我欲を離れて神心になって、それを思わしてもらうとです、ちゃんとこちらに出て来るようになっておるのである。
 親先生なら、きっと六十万の方も払わして頂きなさい。百万の方も払わして頂きなさい。あんたが払うとでばしあんの、神様が払うとよとゆう程にです、おっしゃるに違いないとゆう答えが出てきたとゆうようなお取次の働きになってくるのでなければいけないと思うのです。
 どうぞ、今日の教えを、ひとつ白紙で頂いて帰って、新たな事として、今日一日の生活が出来られますように、おかげ頂かなければいけません。どうぞ。